カニエ・ウェストが突然オペラをやる、と言って始まった『Nebuchadnezzar』が、日曜にLAで上映された。アメリカではTIDALの会員ならば見ることができるのでチェックしたが、なんともこれはオペラと言える内容ではなかった。
まず良かった点は、ビジュアルがあまりに美しかったこと。しかしそれはこれまでのカニエのライブや作品を観ていれば、予想の範囲内だ。カニエのIMAX映画にも登場したジェームズ・タレルの作品に影響されたかのような光が上にあったのが特徴的で、どこか神がかっているようにも見えた。また、全員恐らくYeezyを着ていて、Yeezyのスニーカーも履いていた。総合芸術として彼の才能が発揮できる素晴らしい場所であったとは思う。
それから、どう見てもお金がかかっていて、全体の雰囲気が非常にゴージャズだった。だから現場で観ていたら、凄いものを観たと思った人もいたかもしれない。非常に特別なイベントだったことは間違いないはず。
しかし、問題は肝心の音楽だ。オペラの定義をカニエが無視したとしてもそれは問題ではないが、最大の問題は物語のテキストを全部カニエが普通に読み上げていたこと。それがラップであったわけではない。多少の抑揚は付けてはいたが、普通に『ダニエル書』をそのまま読んでいたのだ。
そしてこのオペラ全体では、サンデー・サービスに参加しているゴスペル隊が物語に合わせて、あーあーと合唱しているだけなのだ。時々カニエの昔の曲“Wolves”などが歌われていることもあったが、曲と言える様な曲は1曲くらいしかなく、しかもそれがテーマになっていたわけでもなかった。これだけ黒人のパフォーマーが出演するオペラというのも珍しいわけで、少なくともアリアを黒人のシンガーが歌う場面などがあっても良かったのではないかと思った。
または、オペラの定義から外れていてもいいが、曲がないこのオペラは一体何だったんだろう? というのも、よく分からない。
ミュージシャンがオペラやバレエを手がけるというのは珍しいことではない。私自身カレン・Oのオペラを観たことがあるし、スフィアン・スティーヴンスが音楽を手がけたバレエも観たことがある。それは古典的な手法とは離れていたけど、それぞれの主旨は明確にあった。
この企画の最高だったところは、カニエがオペラをやる、という意外性と、面白そうと思わせる期待感だったように思う。それはカニエが得意としてきた分野だ。
ただ、カニエのような才能のある人は、この1作がダメだったからと言って終わりではない。今回のゴスペル・アルバムもそうだけど、カニエのみならず宗教的な作品を作るアーティストはたくさんいる。長いキャリアの中で違った観点から音楽を探求する大事な時期なのだと思う。こういう経験がいつか再び傑作を生み出す何かしらのきっかけになってくれたら良いと思う。